狂気が支配~アウシュビッツ強制収容所


今日は8月15日、日本は終戦記念日。
その第二次世界大戦の負の遺産であるアウシュビッツ強制収容所へ行く。
8時、タクシーでバスターミナルへ。
アウシュビッツまで、バスで1時間30分程度である。
ガイドブックには1時間に1~3本あると書いてある。
最初、長距離バス切符売り場に並んだら、アウシュビッツ行きはバスで買えると言われ、人に聞きながらターミナルを探す。
バスはすでに列ができていて、「これは次のバスだな」と思い並んでいると、係員から乗れという指示が。
運転手に「アウシュビッツまで」と伝えると、「片道か?往復か?」、もちろんバスで戻ってくるつもりだったので「往復」と答えると、28plzだった。
乗ると席がない、「1時間半立ったままのか」。
クラクフ-アウシュビッツの直行なので立ち席は無いと思っていた。
私の後ろから乗ってきた女性も、私の方を見て「シートが無いの?」と驚いて聞いてきた。
私は西洋人のように肩をすくめるしかなかった。
8時20分、出発。



MDAバスターミナル



















立ち席なの?と聞いてきたお姉さん







田舎の風景の中を走る






乗っていて気がついたのだが、このバスは長距離バスではなく、路線バスだったのである。
だから長距離バスターミナルからの出発でなく路線バスのターミナルであり、立ち席もありなのである、ぎゅうぎゅうで出発したバスも1時間経った頃には座ることができた。
10時前、アウシュビッツ強制収容所に到着。
受付は既に長蛇の列である。









インフォメーションセンター











ここは入場は無料だが、3月から10月までの、10時~15時までに入場する場合はガイドが必要となる。英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語などのガイドツアーがある。日本語は1人日本人のガイドがいるが、直接本人にメールを送り依頼するシステムなので常にいるわけではない。
ガイド料は1人40plzである。
結構並び、10時30分スタートの英語ツアーとした。
同時間で英語ツアーが何組もあるため、色でグループ分けをしている。私は「緑のシール」のグループとなった。
案内は無線を使うスタイルのため、受信機とヘッドフォンも渡された。
(ただ、渡されたヘッドフォンは接触不良のため、結局、自分のイヤホンを使った)
3人の日本人親子も含め、約20人のグループでスタート。



ツアーのグループ分けのシール













これが受信機







この女性が私たちのグループのガイド

ゲートの「ARBEIT MACHT FREI」・・・働けば自由になる・・・という文字が掲げられている。
Bの下が小さい。
これは収容された労働者がつくらされ、せめてもの抵抗の証であると言われている。
今年(2014年)の初めか昨年、「B」が無くなるという事件があり、後日、戻ってきた事件を思い出した。
この看板はアウシュビッツ強制収容所を象徴するものである。
青い空と煉瓦の建物と緑の芝生のコントラストがとても美しく、あの虐殺の現場とは思えない。









ユダヤ人のグループも






<アウシュビッツ強制収容所>
アウシュビッツ強制収容所はナチスによって造られ、ポーランド人と諸国民を収容するための最大の収容所であった。収容された人々は監禁され、飢え、重労働、医学実験、死刑執行の手段で虐殺されていった。そして、1942年からこの収容所は、ヨーロッパにおけるユダヤ人の最も大きな絶滅センターになった。死を宣告されたユダヤ人の殆どはここに到着してすぐガス室に送られ、ファイルに登録されず殺されていった。そのために現在この収容所で殺された人間の数を突き止めることは困難である。しかし収容所問題を長年研究しつづけてきた歴史学者の発表によると、存在している不完全である資料の研究からアウシュビッツ強制収容所では約150万人が殺害されたことがわかった。
-アウシュビッツ・ビルケナウ案内書より-







最初は6号棟へ。
ここは収容された収容者の写真が並んでいる。
最初は前横後と3カットずつ撮っていたが、収容者数が増えると正面1カットになり、腕に刺青をいれて管理していた。
廊下に並んでいる収容者の写真を見て気がついた、殆どの収容者が収容されて4ヶ月以内に無くなっているのである。
女性も子どもも同じである。
劣悪な環境と食事のため栄養失調でやせ衰えている写真が痛々しい。
その後は、到着したらすぐガス室に送られ写真さえ残っていない人たちも多い。









みんな真剣に説明を聞いている



















この人は1942年4月15日に収監され8月2日に亡くなっている













栄養失調でやせ衰えた子ども達






次は11号棟。
いわゆる収容所内の刑務所にあたるところで地下には餓死牢や窒息牢、50cm四方の穴に立ったまま収容される立ち牢がある。もともと殺す目的なので生活の配慮など一切無い造りである。
外にでるとコンクリートの壁がある。
「死の壁」といって、多くの囚人がここで銃殺されたのである。





















立ち牢・・・50cm四方の穴に投獄







死の壁・・・今でも献花が絶えない






4号棟。
当時撮影された写真や、ガス室のジオラマ、ガス室で使われた毒薬チクロンBが展示されている。
そしてアウシュビッツ強制収容所の位置関係、収容された人たちの国籍、人種などの説明パネル、収容者から切り取られた髪の毛、そして収容者の灰を入れた記念碑がある。
当時チクロンBを製造していたデゲッシュ社は30万マルクの利益を上げたという。









収容された人たちの出身国







ハンガリー 430,000人
ポーランド 300,000人
フランス 69,000人
オランダ 60,000人
ギリシャ 55,000人









人種
ユダヤ人 1,100,000人
ポーランド人 140,000~150,000人
ジプシー 23,000人
ソ連軍捕虜 15,000人
その他 25,000人








「ユダヤ人は根絶させなければならない人種である」と書かれてある







犠牲者の髪の毛や灰を収めた慰霊碑







収容所はアウシュビッツとビルケナウ、そして切れているが右端のモノビッツの3ヵ所である







ガス室のジオラマ







チクロンB



















犠牲者の髪の毛
この髪の毛で織った織物も展示されていたが撮る気がおこらなかった


5号棟。
ここには収容者の持ち物が残されている、鞄、靴、食器から義足などである。
当初、連行される理由が「東ヨーロッパへの移住」という名目であったため財産を持って来たのである。
私は思わず呻いてしまった。
「これって(カンボディアの)キリング・フィールドと同じやん。というかキリング・フィールドはここのコピーなんだ。」
(カンボディア旅行記「クメールの微笑みとキリング・フィールド」の「キリング・フィールド2」http://eurasia-walk.sub.jp/abroad/2011cambodia/2011cambodia14.html)
たかだか5年間で150万人を虐殺、1年で30万人、毎日821人を殺したことになる。
狂っているとしか思えない。
ここでは狂気がすべてを支配していた、狂気であることが正気であった。


























収容所は鉄線で囲まれ、常時220Vの電流が流されていた。















中央監視塔













絞首刑台







ユダヤ人はどのような思いを持ったのだろう

そして最後はガス室へ。
収容者はシャワーを浴びさせると騙され、服を脱がされ210㎡のシャワー室に見せかけたガス室に2,000人が押し込まれ扉を閉めた後、天井からチクロンBが投入され15分~20分で窒息して亡くなったのである。
そして遺体から金歯が抜かれ、髪の毛が切られ、指輪とピアスが抜き取られ、遺体は焼却炉で燃やされたのである。
がらんどうのガス室に置かれている献花がとても切ない。





















死体を焼く焼却炉

ここまでで2時間強。
ガイドの女性は2時間、とても丁寧に説明をしてくれた。
ここで約30分休憩で、次は3km離れたビルケナウの収容所に連絡バスで向かう。
ホテルの朝食時に、パンとハムとチーズのサンドウィッチを作り、それとゆで卵とリンゴを持って来ていた。
これで昼食。
売店で案内書の日本語版を見つけた。5plz。
集合までの間、この案内書を読んでいた。
先に入手していれば、もっと理解できたのに。

再び集合したが、一緒だった日本人親子3人はいなかった。
先ほどのツアーでも父親は途中でいなくなっていたし、女の子は中学生ぐらいなので、写真や展示物は刺激が強すぎ、また英語の解説では理解できなかったと思う。


約10分でビルケナウに到着。
ここは、アウシュビッツ強制収容所に収容された人々によって造られたものである。
引き込み線が引かれ、収容者達は貨物車に詰め込まれたまま「死の門」をくぐり収容所内で降ろされたのである。
基本はアウシュビッツ強制収容所と同じである。

























収容者が増えたため1941年に建造された、それもアウシュビッツに収容された人々が建設に当たったのである。
途中に収容者を運んだ貨車が1台置かれている。
どう見ても人を運ぶためのものではない、左上の出っ張りの構造物はトイレなのだろうか。









同じグループで、この女性だけが私と同様1人で参加していた












線路の終わり






線路がつきた場所に記念碑が建てられている。
すべての死者を悼む国連記念塔である。
そこに犠牲者を出した20カ国の小さな追悼碑が設置されている。碑文は各国の言葉で書かれている、いかに多くの人々が犠牲になったかを物語っている。



















その横をイスラエルの国旗を持った若者が歩いていく、彼らはどのような気持ちでこの地を訪れているのだろう。
崩れたガス室がそのまま保存されている。







































収容されていた人の部屋







午後2時過ぎツアー終了。
4時間あまりの熱心なガイドありがとうございました。

バスでアウシュビッツに戻ると、まだまだ入場待ち長蛇の列である。
クラクフに戻るバスの時刻は、16時20分。
「15時04分」の便は今日は曜日が違うため運行は無し
2時間近く待つが、仕方がない。








ほとんどの人が観光バスか自家用車で来ている。
「16時20分」のバスに乗車、半数ぐらいは朝のバスが一緒だった人たちである。
同じ時間に着き、ほぼ同じ時間帯のツアーに参加しているためであろう。
帰りのバスは座ることができた。








70年前これだけの虐殺があり、今、人類がまともかといえば、そうではない。
今でも相変わらず宗教、人種、領土で対立し相手を殺している。
アウシュビッツ、ヒロシマ、キリング・フィールド・・・もう少し人類は賢くなるべきではないのか。



ヴィスワ川の畔にて

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