キリング・フィールド2


キリング・フィールドに到着。

入場料2$払って場内へ。
降り注ぐ太陽の光、明るく快晴の空。
この風景を見ていると、この地で何があったのか感じることは難しい。

右手に展示室の建物があるが、そこへ行くのは後回し。






正面の塔に向かって進む。
私は解っていた、正面の塔が何を意味している建物なのか。
そうシェムリ・アップの慰霊塔の規模の大きいモノであることを。

塔に近づくと、私の目に飛び込んできたのは数多くの髑髏(しゃれこうべ)であった。
私は手を合わせたが、祈る言葉が出なかった。
ただ、鎮魂を願うのみであった。
この慰霊塔には8,985柱の遺骨が安置されている。



















パリのカタコンベで過去の偉人の髑髏などは見たことがあるが、このような明るい空の下で数多くの髑髏は、無言で何かを訴えかけている。
それを感じるのか目をそらすことができない。
私だけでは無いのだろう、欧米の若者も献花をし、ガイドの人の話を神妙に聞いている。また欧米人以外の人達も、思い思いに線香を上げ、献花をし、寄付をしている。
祈る人もいれば、胸で十字を切る人もいる。
宗教の枠を超えて、人の心に刺さるものがあるのだろう。







そこに30度を超える気温の中、ダークスーツにネクタイをしている集団がやってきた。
左端の若い人が、4人に説明をしている。
その言葉は日本語である。
「現地駐在のスタッフが本社からのえらいさんを案内しているんだ。ご苦労様」と思っていたところ、本社から来たであろう4人が慰霊塔の前に立ち、それを現地スタッフが記念撮影をしている。
それも、大きな笑い声を出しながら。
そして今しがた来た道を去っていった。
その時間5分もなかった。
「ここはニコニコ笑って記念撮影するところじゃないやろ。せめて、手を合わせることぐらいはせなあかんやろ!」と一人憤っていた。
その気持ちは私だけではなかったようで、周りの外国人も呆然と見ていた。
何のために彼奴らは来たんだ。
ガイドの説明を真摯に聞いている若い旅行者のほうが、よほど謙虚じゃないか。

その慰霊塔の後ろに回ると、穴だらけの広場となっている。
ところどころに囲いをした掘っ立て小屋が建っている。



















「ここから裸の100柱の遺骨が見つかった。」
「ここからは400柱の女性と子供の遺骨が見つかった。」
「ここからは首の無い200柱の遺骨が見つかった。」
「ここからは殺戮に使われた道具が見つかった。」
どれも読んでいるだけで気が滅入る説明が書かれている。













また鎖で囲っただけのところでは、歯や骨が埋まっている。
見ると地面に歯が露出している。
雨期には流されてしまうだろうに思うのだが、おそらくこの下にもびっしりと埋まっていて、表面に出てくるのであろう。













私は疲れたので木にもたれ、iPodを取り出した。
イヤフォ-ンを耳にあて電源を入れた。
実は出発前にiPodに映画「キリング・フィールド」のテーマ曲を入れてきた。
私のiPodはShuffleなので曲を呼び出すことができない。
そのため20回ほどFWDを押したが呼び出すことができなかったので、諦めた。
400曲あまり入れているので仕方がないし、ここで聴いても何かあるわけでもない。

























入り口の右手には展示室がある。
ここにはポル・ポト派に関する資料が展示されている。
黒い服と朱いチェックのクロマー、写真や映画で見たものと同じである。





































重くなった気分で門の外に出て一息ついた。







次はトゥール・スレン博物館へ。
約20分ほどで到着。15時過ぎ、午後の開場時間が始まったところである。










街中にある学校のような建物である。
コチラは2$の寄付をして入る
ここは博物館となっているが、刑務所跡である。
解放後、プノンペン市内から住民を追い出し、高校であったここを刑務所にしたのであった。







ここには「反革命分子」と見なされた人々が次々と捕らえられ収監され、白状するまで拷問にかけられ、そしてキリング・フィールドに連れて行かれ殺害されたのである。
説明文を読むと、記録に残っているだけで約20,000人が収監され、生き残ったのは7人であったという。
建物は4棟あり、尋問のためのA棟、収監された人々の写真が展示されているB棟、独房・雑居房のC棟、拷問の様子を伝える絵や器具が展示されているD棟となっている。

A棟に入る。
廊下があり、教室の入り口があるという学校の造りそのままである。

ただ教室に入ると、鉄製のベッドがポツンと置かれ、壁には一枚の写真が。
それはベッドに縛り付けられ拷問を受けボロ雑巾のようになった人の写真である。
無残な写真に私は吐きそうになった。









隣の部屋、その隣の部屋も同じである。







この建物、1階に10教室、それが3階計30教室。
すべての部屋で毎日のように拷問されていたかと思うと、空気が重く感じられたのも、気のせいばかりでは無いのかもしれない。













次にB棟へ。

入ると写真がズラッと展示されている。
収監され意味も無くスパイとみなされ殺害された人々の写真である。















一枚一枚正面から撮られている。自分の運命を悟ったかのような表情は見ている方が辛くなる写真である。
建物の端から端まで教室をぶち抜いて展示されている。

























おそらく2階も同じなのだろう。
1階だけで充分である。
もう嫌になってきた。
そう思いつつC棟へ、廊下には有刺鉄線が張り巡らせてある、脱走させないためであろう。

その独房は、人がひとり横たわるのが精一杯のスペースしか無い、そして足には鎖がかけられていていたのだろう。この狭い場所では雨期や炎暑時期は耐えられるものではなかったはずである。




















外は暑いにもかかわらず、私の身体は冷え切っている。
そして最後、D棟。
拷問に使われた道具が展示されている。
もう充分だ。













出口に向かうと一枚の写真が。
それは犠牲者の髑髏と骨で作られたカンボディアの地図である。そしてトンレサップ湖やメコン川は血の色である。
何のためにこんな地図を作ったのだ。







D棟を出て出口へ向かう。
外に出ると、東南アジアの見慣れた明るい風景であるが、気分は最低であった。

でもキリング・フィールドとここは、私にとって来るべき場所であったことは間違いない。

実質、これで今回のカンボディア旅行は完結である。


プノンペンの夜

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