第1次世界大戦の始まり


入国審査を抜けて、KM(マルカ 1KM=約70円)に両替をして空港を出た。
市内へは約12kmだが、空港連絡バスなどはない。路線バスかタクシーのどちらかである。タクシーを料金交渉の結果20KMで予約したハルバット・ゲストハウスへ。
途中、渋滞などもあり40分ほどかかり到着。


ゲストハウスは旧市街の住宅地の中にあるため、おそらくバスで来たら、キャリーを引いて、傘を差しながらiPadのGoogleMapで探すことになっていただろう。
チャイムを鳴らすと素敵なマダムが出迎えてくれ、玄関横の部屋を案内してくれた。
全6室で、今日は私以外は1組とのこと。
マダムは、コーヒーを部屋に持ってきてくれ、その時、市内のお勧めのレストランなど丁寧に教えてくれた。







































この国は部屋に入ると靴を脱ぐ習慣である

そして最後に「美味しい朝食を5ユーロでいかが?」とのお誘いが。
もちろんお願いした。

16時過ぎ、外に出たが、雨も降っているため、相当暗い。
とりあえず旧市街の広場に向かった。
広場の中心のバチシャルシアのセビリには観光客はパラパラといるぐらいである。



これがセビリ






























その後、電車通沿いを歩いていくと、古い建物のあちらこちらに弾痕が残っているのを見つけた。
サラエボの古い建物には内戦時代の弾痕が残っているとは知っていたが、これだけ残っているのか。



至る所に弾痕が残っている





































桜が咲いている・・・これは2002年に日本のNPO法人が植樹したもの






1992年から1995年の3年間、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争というボシュニャク(ムスリム)人、セルビア人、クロアチア人の間で民族間の内戦があった。
その傷跡である。
スナイパー通までは、まだ距離がありそうなので、電車通りとショッピング街との合流地点でショッピング街の道を引き返した。















この先がスナイパー通




































広場の近くで南側の川に向かう。
1914年6月18日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が、ここサラエボでセルビア人のガウリロ・プリンツィプによって暗殺された。
サラエボ事件である。
これがきっかけで第1次世界大戦が始まり、第2次世界大戦が終結する1945年までの31年間、世界は戦火に包まれたのである。
その暗殺が行われたのがラテン橋の近くの路上であった。



















橋にいくと、暗殺された路上の前の建物は事件の博物館となっている。
事件の銘版があり、また皇太子夫妻の写真なども展示されている。















ここが暗殺現場






この旅の直前に放映されていた「新・映像の世紀」の第1話が、第1次世界大戦勃発前後であった。
あの映像で写っていた戦死した兵士は、この事件がなければ戦争も起こらず死なずにすんだのかもしれない。
1ヶ月前に見た映像のためか、妙に生々しく感じられる。



教会もモスクも数多くある






























夕食は、ペンションのマダムの推薦の店にした。
行くとほぼ満席であったが、入り口に一番近いテーブルが空いていた。





































見渡すと地元の人ばかりである。料理はマダムのお勧めだけあって美味しい。
さて、明日はオリンピック会場へ。


冬季オリンピックの栄光と哀しみ

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