ハノイ・ヒルトン


8時、ホテルのロビーで待っているが誰も来ない。
電話をかけても誰も出ない。
どうなっているんだ?
代理店に電話しても誰も出ない。
私の携帯も鳴らない。

8時30分。
同じことの繰り返し。
実は昨日、ターヒエン通りの旅行代理店で、ハノイ郊外にある香寺(フォーン寺)に行くツアーを予約した。
8時ホテルのロビーに迎えに来ることになっていた。
今まで東南アジアで現地ツアーな何度も利用しているが、こんなことは初めてである。

9時00分、代理店が開いたので出向く。
なぜすっ飛ばされたのか原因は単純であった。
一つは担当者が迎えの担当者にホテルを間違えて伝えていた(アホか)
もう一つは、私の携帯の電話番号を間違えて記載していた(そりゃ繋がらないわけだ)
あまりもバカバカしくて怒る気にもならず。
全額返金してもらった。

香寺はハノイから60km南に行った所に位置するので、バスでいくと1日がかりなってしまう。
次に来なさいというメッセージと受け取っておくことにしよう。
予定変更。
ドンスアン市場を覗いて、午後から行く予定にしていたホアロー収容所に向かう。





































ホアンキエム湖岸を歩き、さらに南へ。
ホアロー収容所に到着。







ここは19世紀末にフランスによって作られた収容所である。
フランス軍がベトナムから撤退した後も、ベトナム人民軍の捕虜収容所として使われてきたのである。
そしてこの収容所の別名は「ハノイ・ヒルトン」。
ベトナム戦争時、アメリカ軍の捕虜はここに収容されていた。
もちろん当時ヒルトンホテルがハノイにあるわけがなく、北ベトナム軍の捕虜になり収容所に収監されることを皮肉った造語である。
兵士にとって不安と恐怖の対象だったであろう。
ベトナム戦争の記録には必ず出てくる場所の一つである。
今回の旅で、ここが最後の目的地である。









雑居房では足首を固定され、ほとんど動くことができない。
独房は狭く暗い。
ポーランドのアウシュビッツ収容所、カンボディアのキリング・フィールドのトゥール・スレン収容所と同じである。



首に木枠をはめられ横になることさえできない







当時を再現した人形












その奥にはギロチンなどが展示してある。

さらに進んでいくと、現代になりアメリカ軍兵士の捕虜の展示室があった。
ホーチミンの新年のメッセージや、捕虜の写真などいかに人道的に扱っていたかという展示になっている。
いくら人道的とはいえ、まったく情報が掴むことができない中、推測でしか判断できなかったであろう。
たしか、ここをテーマにした映画を見た記憶がある。
今までベトナムに来てサイゴン、クチ、フエ、ダナンそしてハノイ、ベトナム戦争の証跡を尋ねて歩いた。
当時、ベトナム戦争ノンフィクションや写真集で最後まで謎の収容所であった、ハノイ・ヒルトン、しばし展示を見ながら記憶をたどっていた。

































それにしてもホーチミンのメッセージは信念とユーモアを感じさせる内容で、彼の人柄を感じさせるものであった。

本来であれば、ここには午後の遅い時間に来て、今回の旅を締めるつもりだったのが、中途半端になってしまった。
とりあえず収容所の近くのハノイ駅に行ってみた。
駅は人と人のジャンクションで面白い写真が撮れることが多い。
ベトナムの鉄道は、列車到着近くにならないと改札を開けないため勝手にホーム入ることはできない。
今一つこれというシチュエーションに出会えない。







ベトナム鉄道の従業員のアオザイが美しい。

さて、妻と娘から頼まれていたハス茶とコーヒー、バチャン焼きの食器を買いにいくことにしよう。



西湖と少女

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