台南市内3時間30分


旧市街にあたるこのエリアは半径1kmに多くの史跡、廟が集まっている。
台南滞在3時間30分の間、どれだけ回れるか。
粽屋から一番近い呉圓へ。





























































階段を下りていくと、庭園が広がっている。
ビルの谷間の庭園。
3人の少女が集まっている、一人は牧師の服装に着替えている。
昼のゆったりした時間が流れている。



保存されている灯台






その後は天壇へ。

























台南市内だけで300の廟があり、多くの善男善女が祈りをささげている。
台湾の人たちは日常で何かあると神様に相談するというのが当たり前となっており、とても身近な存在である。











































その後は赤嵌楼(赤崁楼)へ向かう。



この手のカップルを多く見かけた
おそらく写真集を作るためだろう








どんな味か気になる







つい、路地に入ってしまう



















ここは台湾と日本が深く関わっている場所である。
赤嵌楼は、1653年、当時統治していたオランダが建築、1661年、台湾の英雄、鄭成功(俗称:国姓爺)がオランダから台湾を奪取した時、台南を承天府として政治の中心とした際に行政府をおいた、台南最古の史跡である。





































第二次世界大戦中、日本の統治下にあった台湾で、この砦も荒れ果てたまま放置されていた。それを見た当時の台南市長であった羽鳥又男氏は、倒壊寸前だった赤嵌楼を軍部の反対を押し切り2年の歳月をかけて修復したのである。
修復が完了したのが1944年12月、敗戦の前年であった。台南市民はそのことを羽鳥氏に感謝したのであった。
ここは台湾の重要文化財であり、私が行ったときも多くの団体客が来ていた。
旅行会社などの名称から推察すると大陸からの観光客である。































次は神農老街へ。
ここは台南の古い町並みが残っているエリアである。
から徒歩約15分。















どんな味?













実にわかりやすい

























日本と同じイメージキャラクター

その通りに一歩踏み入れると、なるほど周辺のエリアとは異なり古い家屋が並んでいる。人が住まなくなった家屋はギャラリーなどで利用し廃屋とならないように地域ぐるみで保存している。

















































私以外にも何組かが散策し撮影をしていた。
京都でいうと祇園界隈というより、西陣界隈に残るの町屋のイメージか。
旅に出ると古い街並みが残っているエリアや旧市街には必ず行く。
歴史を感じさせる雰囲気が好きなのと、絵になるということだろうか。



今や無くなったメーカー























































ほんの300mぐらいの短い通り











台南には日本人を神として祭っている廟がある。
飛虎将軍廟という廟で、ゼロ戦パイロットであった杉浦茂峰という軍人が神である。

なぜゼロ戦パイロットが神となったかと言うと、1944年10月、第二次世界大戦中、台南上空で空中戦があり、ゼロ戦が被弾し集落に墜落しそうになったが、そのパイロットは脱出せず機体を急上昇させ田園地帯まで操縦し空中爆発したのである。
焼け残った靴からパイロットの名前が分り、その地域では以来、自分たちの集落を守ってくれたパイロットを神として祭っているのである。
この廟のことはガイドブックには載っておらず、出発前に、たまたまテレビ番組で、このエピソードを知ったのである。
何人かに尋ねてわかったことは「その廟はここ(中心部)ではなく、少し離れたところにある。」ということであった。

残り30分、駅に向かわなければならない時間なので、あっさりと諦めた。
ダメで元々であったので行けなくても惜しくはない。
ほんとに行くつもりであれば、ネットであらかじめ調べていたであろう。
















































































余談だが、郊外にある烏三頭ダム(1930年完成)も日本人が設計・完成させたのである。当時の金額として5,000万円、当時の日本政府の台湾統治の年間予算に相当する額であったという。

10年の歳月をかけてこのダムは完成し、このダムによって河南平野は豊かな穀倉地帯となったのである。
ダムを設計・完成させたのは八田與一という技師である。その功績を称え、翌年、八田技師の銅像はダムが見える丘に設置された。第二次世界大戦末期、鉄不足で銅像が軍に供出されることになったが、地元の人が隠して守ったというエピソードがある。
その像は今もダムの見える丘に安置されているという。



































































第二次世界大戦中、日本はアジアの国々を侵略し多くの人々を傷つけた「悪」であったが、ここでは日本人が台南の人たちのために尽くし、今でも敬愛されている。
そういう日本人がいたことを嬉しく思う。

わずか3時間30分の滞在だったが満足である。


高雄の夕陽

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