キリング・フィールド1


1975年4月17日、解放戦線(クメール・ルージュ=赤いクメール)側の勝利により内戦が終結した。
4月30日にはベトナムとラオスも解放戦線側の勝利によりベトナム戦争およびラオスの内戦も終結した。
これにより長年にわたって続いたインドシナ紛争が終結し、3カ国とも共産主義国家となった。
カンボディアはクメール・ルージュ率いるポル・ポトが政権を担うことになった。
そして、この日からカンボディア国民にとってインドシナ紛争以上の地獄が始まった。


まず首都プノンペンの住民を全員郊外・地方に強制移動させ稲作などの労働に従事させる一方で知識人を刑務所に送り拷問のうえ、反乱を起こす可能性があるとみなし処刑をしていったのである。
解放後、祖国を立て直すべく希望を持って帰国した留学生や資産家なども海外の思想を持ち込み悪影響を与えると処刑してしまった。
ポル・ポト政権が目指したのは「原始共産制」という、ポル・ポト派の人間以外はすべて労働者であり、知識人は不要であるという共産国家である。
当時、中国で吹き荒れていた「文化大革命」に影響を受けたのか、聞いているだけでクラクラする、とんでもない政策である。


その政策は狂気の度合いを増し、800万人いた国民のうち100万人とも200万人とも虐殺されたと言われている。
ポル・ポト派内でも抗争のあげく、対立するグループを粛清殺害してしまう事態にまでなっていく。

この虐殺については「カンボディアのホロコースト」としてナチスのアウシュビッツと比較されるが、アウシュビッツはユダヤ人を排斥するという意図があったが、カンボディアの場合は自国民が自国民を思想に合わないというだけで大量に虐殺したという意味では一番残虐であると言える。

この原始共産政策は1979年1月にベトナム軍がカンボディアに侵攻したことにより、あっけなく崩壊したのであった。
ソ連の支援とベトナム戦争時代の兵器を擁し、戦争慣れしたベトナム軍に、中国の支援を受けているとはいえ満足な兵器も持たず、思想だけでゲリラ戦しかできないポル・ポト派が勝てるはずもなく、プノンペンを放棄しタイ国境のジャングルまで追い詰められたのである。

結果としてベトナム軍がポル・ポト政権の自国民への虐殺を止めたと言える。
その後、亡命カンボディア人のヘン・サムリンにより統治されるが、いわゆるベトナムの傀儡政権であった。そのためクメール・ルージュとシハヌーク国王派、ソン・サン派の3派が「敵の敵は味方」の論理で手を組みヘン・サムリン派に対してタイ国境付近を拠点としてゲリラ戦を始めたのであった。
このことにより国土は一層荒れ果て、大量の「カンボディア難民」が発生し、1989年にベトナム軍が撤退するまでこの戦いは続いたのである。
そして1991年「カンボジア和平パリ国際会議」において国内4派により合意文書が交わされ20年に及ぶカンボジア内戦が終結したのである。

そして荒れ果てたカンボディアに国連が介入し、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC 明石康事務総長)が実働し総選挙が実施され民主化されたのが1993年であった。自衛隊がPKOでタケオでの活動は記憶に新しい。
そして、1998年辺境のポル・ポト派支配地域でポル・ポトが死んだことが確認され、この地も平定された。
わずか10数年前のことである。

当初、この虐殺については、海外にはほとんど知られることはなかったが、1年、2年が経ち難民や亡命者などから「大虐殺が行われているらしい。」と徐々に情報が流れるようになっていた。
1977年頃になると、「事実」として世界中に知られるようになり、欧米各国で盛んに報じられるようになったが日本のマスコミからは報道されることはなかった。

当時の日本のマスコミの風潮は、ベトナムと戦争しているアメリカは「悪」、従って北ベトナムが正義であるという論調であった。同様にカンボディアに対しても西側の腐敗した政府から「カンボディアを解放」した解放戦線(クメール・ルージュ)が正義であるという論調であり、その正義の集団が自国民を虐殺していることなどあり得ないという考えだった。

朝日新聞出身の本多勝一はポル・ポト派を支持し、また虐殺など無いという記事を書いており、この論調が主流であった。(後年1985年虐殺があったことを認めている。)
本多のような左翼的立場を取る言論人の多くがこの考えであったことが日本国内の報道に影響を与えていたと言える。

戦火と混迷の日々 悲劇のインドシナ」(文春文庫 近藤紘一 著)、ここに登場する内藤泰子さんはカンボディアの外交官の夫と結婚し、この虐殺の時代、夫と子供2人と養女1人を失いながら生き延びた日本人である。

内藤さんの体験を取材し新聞に連載し、また当時のインドシナ情勢を加筆して1冊の本に纏めたのが、「サイゴンから来た妻と娘」で知られている、産経新聞社の近藤紘一記者である。
インドシナ情勢に詳しい近藤氏であったからこそ、この本を執筆することができたのであろう。
当時、内藤さんの体験はマスコミで一斉に報道され、日本人はこの時初めてカンボディアでの虐殺が事実であったことを知ったのであった。

内藤さんは、1979年帰国後、再婚されるが1982年8月死去。
また、インドシナ情勢に関して第一人者であった近藤氏は1986年1月胃癌で46歳の若さで死去。
親本は1979年刊行だったが、文庫は主人公と書き手が共に亡くなった後の1987年2月に出版されている。

その虐殺はカンボディア全土でおこなわれ、その場所は「キリング・フィールド」(殺戮の野)と呼ばれている。

そして1984年に映画「キリング・フィールド」が公開された。
この映画を見てカンボディアの人々は「実際はもっと残虐であったが、やっと事実が公になった。これで世界にこの虐殺の事実を知ってもらうことができる。」と語ったという。

そして「キリング・フィールド」はシェムリアップにも存在する。
それがワット・トゥメイである。
この寺はキリング・フィールドがあったこの場所に被害者の慰霊のために近年建立されたのである。

正面から入ると真新しい本堂がある、その右手奥に慰霊塔がある。
その慰霊塔に頭蓋骨など被害者の骨が収められている。
私は静かに手を合わせた。
しばしの祈りの後、募金箱にわずかばかりのお金を投入した。

慰霊塔の後ろには、当時の写真が掲示されている、すっかり変色しているが、それが逆にリアリティを感じさせる。
その中で一枚の写真。キリング・フィールドの映画の1シーンのスチール写真である。
「映画の写真まで使って。」と指摘するのは簡単だが、この映画の主人公のハイン・ニョール氏もキリング・フィールドを生き延びた人であり、そういう意味では証拠写真の一枚とも言える。

見ていて気分が重くなるばかりである。
でも、10代の頃からインドシナ紛争に関心を持ってきた者として、ここへ来ることは一つの区切りとして必要なことであった。
そして、もう1箇所のキリング・フィールドへも行かねばならない。

私の頭の中で、キリング・フィールドのテーマが繰り返し響いている。

そこへ韓国人の団体が到着した。
ボランティアの方々が団体に対して説明をしている。







境内では子供達が遊んでいる。
彼らにとってはここは日常遊び場なのだろう。








寺を出て歩いていると「ハロー」と声がかかった。
誰だと思い振り返ると、一人の女の子がハンモックから私に声を掛けていた。
少女のはにかんだ微笑みは、私の重くなった心を軽くしてくれた。



椰子酒と蟲

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