はじめに
1972年・・・30年前。
田中角栄内閣の「日本列島改造論」で日本の地形が変わり、浅間山荘事件、5月15日沖縄返還、「ひかりは西へ」のキャッチフレーズで新大阪〜岡山間の山陽新幹線が開通、日本は高度成長期のまっただ中でした。

 「JR」がまだ「国鉄(JNR)」だったこの時代、「Discover Japan」や「いい日旅立ち」というキャンペーンがはられ、海外旅行は高嶺の花、沖縄は返還されたばかりでまだ一般旅行先とは言えない頃、北海道には「カニ族」と呼ばれる多くの旅行者が訪れていました。そうですね、今の「バックパッカー」の先駆けのようなものでしょうね。

  もう一つ、この国鉄の「無煙化政策」により全国から蒸気機関車が消えつつありました。それを受けて消えていく蒸気機関車(SL)を惜しむべく、日本列島は空前の「SLブーム」でした。
それこそ大人も子供もSLを追っかけ、日本列島を北へ、南へとSLを追っかけていきました。各マスコミにも何度も登場するほど社会現象となっていました。

  さて、そのころ小学校6年生だった私も例外ではなく、クラスメートとともに毎日ように家の近くの東海道本線で通過する電車を見ては喜んでいました。
たまに電気機関車の後ろに着いている回送のSLなんぞ見ると大騒ぎでした・・・(^^;;
みんな家のカメラを持ち出して、下手な写真を撮ってはプリントを交換していました・・・今のカード交換のようなモノでしょうか。

 その中で、友人のお兄さんがSL撮影旅行に行って、実際に煙をはいて走行している写真を見せてもらうとうらやましい限りでした。
でも小学生の子供にSLが走っている地域まで撮影に行く小遣いなどあるわけもなく指をくわえているだけでした。たまに親にSL特別列車などに乗せてもらうと大騒ぎでした。

 中学生になり、親が買った「Nikomat FTn」もほとんど自分のモノとなり、それ相応の小遣いも使えるようになると念願の「SL撮影旅行」に出かけられるようになりました。
しかし、急速にSLが廃止されていき、実際、私が現役のSLを撮影することができたのは、1973年の春先から1974年の夏の終わりの1年半あまりでした。それはあまりにも短い期間でした。
1974年の秋には北海道や東北の一部しか走っておらず、中学生にとてもいける地域ではありませんでした。
 1975年12月14日北海道室蘭線でC57 135号機が最後の旅客列車を牽引しました。そして同年12月24日北海道夕張線をD51 241号機が石炭列車を牽引して蒸気機関車の定期運用は終わりを告げました。
  
 ここにアップした写真は、資料やネガすでになくなり、唯一手元に残っていた1冊のアルバムに貼ってあったプリントからスキャンしたモノです・・・よく残っていたものです。
 いただいた写真とかすごくいいのが沢山あるのですが、著作権こともあり、私の下手な写真のみのアップとなります。

 前書きがくどくなりましたが、「あとがき」でまたいろいろ書きますので。まずは70年代前半のSLの写真をお楽しみください。

2002.1.6・・・店主敬白